日本の有名企業500社以上を設立した男、渋沢栄一の子孫が語る「元祖起業家」の言葉

コモンズ投信 取締役会長 渋澤 健インタビュー

みずほ銀行、東京海上、帝国ホテルといったおよそ500もの企業の設立にかかわり、大学や病院、NPO法人といった約600といわれる慈善団体の設立や経営に関与した男、渋沢栄一。「近代日本資本主義の父」と呼ばれ、今でも高い評価を受ける実業家です。 その理由のひとつは、個人的な財閥を作らず、外部の人材や資本を入れて、あらゆる事業を成功させてきたこと。このような考え方は、今のスタートアップにも通じるものがあります。

そんな渋沢栄一の玄孫(やしゃご)に当たるのが、渋澤 健 氏。外資系の金融機関に勤務した後、コモンズ投信という金融ベンチャーを立ち上げた起業家です。

渋澤 健(しぶさわ けん)
国際関係の財団法人から米国でMBAを得て金融業界へ転身。外資系金融機関で日本国債や為替オプションのディーリング、株式デリバティブのセールズ業務に携わり、米大手ヘッジファンドの日本代表を務める。2001年に独立。2007年に独立系(金融機関のグループに属さない)の投資信託会社であるコモンズ(株)を設立し、2008年にコモンズ投信会長に着任。

社会のインフラを創っていった渋沢栄一

大久保:渋沢栄一さんの功績について、玄孫にあたる渋澤さんはどのように考えていますか?

渋澤渋沢栄一が目指していたことは、民間力を通じて国力を高めることでした。明治維新後の日本の近代化には民間での価値創造が不可欠でしたが、個々では微力な存在を合わせて力を増す必要があり、また成長資金を経済社会へ循環させるために渋沢栄一は銀行を開業しました。

渋沢栄一の最も有名な功績は、今お話しした第一国立銀行の開業です。
当時、日本社会には今で当たり前の存在である「銀行」というものはスタートアップでした。そもそも「銀行」という言葉自体も造語なので、その存在を説明するために使ったのは「銀行は大きな川のようなものだ」という例えでした。

「銀行に集まってこないお金は、雫がポタポタ垂れている状態と変わらず、力を持たない。けれど銀行にお金に寄り集まり、それが再び流れていけば川になり、その川が合流して大きな大河になれば、強い原動力となり、産業発展を支えることができる。」このような説明をしたと考えられます。

渋沢栄一は、現在のみずほ銀行、東京海上保険、帝国ホテルといった約500もの企業の設立にかかわり、大学や病院、社会福祉法人といった約600といわれる非営利団体や活動の設立や経営に関与したと言われています。また「近代日本資本主義の父」と言われていますが、本人は資本主義という言葉は使わず、「合本(がっぽん)主義」と言っていました。

「合本主義」とは、一滴一滴の雫を合わせて大河にするという考え方です。その考えに基づき、1873年に王子製紙の元になる「抄紙会社」を創立し、日本に製紙という西洋技術を取り入れました。日本の大量生産製造業の曙ですね。そこから始まり、東京海上保険など経済社会のインフラと呼べる会社を次々と作っていったのです。

大久保:「合本主義」をベースに、海外の技術も積極的に日本に取り入れていったのが、渋沢栄一なのですね。

渋澤:そうですね。おそらく、渋沢栄一という人は自分の枠を超える人でした。多くの人は、生まれた国、地域社会、会社、自分の成功体験、価値観といった安全な枠の中で生活しています。ですが、枠の中にずっと留まってしまうと、外の視点を持つことができません。世界はどんどん拡大しているので、気づかないうちに自分のいる枠が小さくなり、自分自身も小さい存在になってしまうんです。

渋沢栄一も若い頃は、「尊王攘夷」という枠の中に留まって「外国なんて!」と言っていた人でした。ですが、27歳の時に徳川慶喜公の幕臣としてパリ万博に派遣され、初めて西洋の文化や文明や技術に触れたことで、生き方が変わります。
いろんなものを見て刺激を受け、それらを持ち帰り、日本という枠の中を刺激するようになりました。

枠を刺激することは外からでもできますが、枠を広げることは内側からしかできません。よく「地域社会に必要なのは『よそ者、若者、ばか者』だ」と言われますよね。よそ者は枠の外から来た人だし、若者は枠の中にいるけれど「まだ若いよ」と認められていないアウトサイダーです。ばか者はもともと枠を持たない者です。

ですが、この三者だけでは地域再生はできません。彼らが入ってくることによって元々枠の中にいた人たちが「ああ、こういう見方もあるんだ」と気付いて初めて動き始め、彼らを囲っていた枠は形を変え始めるんです。

最近の経営課題であるダイバーシティ経営(※1)もCSR(※2)も、それまでの企業の成功体験の枠外の人を呼び込んで、内部を刺激している。仕事の運用方法を変えることで、企業価値を高めようとしています。

渋沢栄一のやったことも同じで、日本社会に国外からの刺激を呼び込むことで、チャレンジしたい若者が刺激された。自分が中心に立つのではなく、枠内の人々に刺激を与えて支援する応援役になったということですね。

渋沢は銀行を作り、成長しがいのあるベンチャーに資金を回すようになりました。後に大財閥になる古河市兵衛なども、渋沢栄一から支援を受けて成長しました。そういった起業支援がもともとの銀行や金融の原点なんです。

※1
ダイバーシティ経営:企業が多様な人材を活かし、能力を最大限発揮できる機会を提供することで技術革新を誘発し、価値創造を実現する経営手法のこと。

※2
CSR:「corporate social responsibility」の略。様々な社会のニーズを、価値創造、市場創造に結びつけ企業と市場の相乗的発展を図ること。

大久保:渋沢栄一の「合本主義」は、今の資本主義の原点だと考えられますね。

渋澤:そうです。現代は株主資本主義であり、私がMBA(※3)を取った80年代には「企業価値とは株主価値だ」、「株主価値は時価総額(株価×発行株数)だ」と言われていました。その考え方は間違いではありませんが、おそらく渋沢栄一の「合本主義」がベースに働いていたからこそ成り立つ論理です。

※3
MBA:「Master of Business Administration」の略。日本では経営学修士と呼ばれ、経営学の大学院修士課程を修了すると授与される学位のこと。

株主資本主義とはいえ、企業が価値を作るために必要なのは、株主だけではありません。経営者、社員、取引先、顧客などのステークホルダー(利害関係者)が個々の役割を果たし、その力を合わせることで価値を作っていけるのです。

つまり、日本の資本主義の原点である「合本主義」とは、「共感によって寄り集まり、共助によってお互いを補い、今日よりも、よい明日を共創すること」だと私は解釈しています。たった一人で物事は始めることができますが、たった一人だけでは大きなことは成し遂げられません。私は、「合本主義」を現代的に言うと、それはステークホルダー資本主義だと思います。

「共感」によって散らばったものは集ります。ですが、個々の長所短所、強弱、濃淡などのデコボコが存在しているので、共感だけでは物事は進みません。だから、互いの不足を補い合う「共助」によってデコボコを無くして事が進みやすくする必要があるのです。この共感と共助を合わせることが「足し算」であり、「足し算」がしっかりとできるのであれば、「掛け算」へと進めます。

この「掛け算」とは、「共創」、コ・クリエーション(※4)ですよね。共に新しい創造を繰り返すことができれば、それが「掛け算」へとつながります。

異なる個々が共創することで、足し算だけではなく掛け算の効果が生まれる。この流れが重要です。共創を成り立たせるために、渋沢栄一は枠外と枠内の異なる個性における橋渡しとしての役割も果たしていたと思います。

※4
コ・クリエーション:多様な立場の人たち、ステークホルダーと対話しながら新しい価値を生み出していく考え方のこと。

現代でも生きる渋沢栄一の言葉

大久保:渋沢栄一については、幼い頃から身近だったのでしょうか?

渋澤:初めて渋沢栄一を意識したのは小学校の低学年の時です。その時は教科書や本を読んで「偉い人だったんだな?」くらいに思った程度でした。そもそも私は、小学校二年から大学までアメリカにいて、帰国後は外資系金融機関に属していたので、正直に言うと渋沢栄一への意識はあまり高いとは言えませんでした。

ですが起点が訪れたのは2001年、40歳のときに起業したことがきっかけで、渋沢栄一の言葉に触れてみようと思ったんです。父の本棚に「澁澤栄一伝記史料」という書物がずらりと並んでいて、それは渋沢栄一の本の元になる史料でした。実際に渋沢栄一が発した言葉が残っていて、現代用語にかみ砕けば、130年以上経った今でも通じるものがたくさんありました。

多くの言葉が、渋沢栄一が明治末期から大正初期に残したものだったのですが、今の時代の状況に非常によく似ています。

当時は、日本の文化が西洋社会に追いついた時代でしたが、渋沢栄一は「日本は文明的に豊かかもしれないけれど、精神的には未熟で守りに入っているのではないか?」ということに嘆いています。一人ひとりの精神力が乏しいまま、「公益」など大きな課題は政府に任せてしまう。大正時代に一般市民は物質的に豊かになりましたが、1930年代に戦争の時代になります。

おそらく渋沢栄一は、日本人一人ひとりの生活が豊かになった結果「自分は関係ないから政府は政府で勝手にやってください」というおまかせ主義になった状態に警鐘を鳴らしていたんだと思います。それを政府側が良しとした結果、日本は戦争へと突入していきました。

私は、その当時の空気感は現代と似ているところがあると感じました。「このままではいけない」と思い立って、インターネットやブログで渋沢栄一の言葉をかみ砕いて、現代の時代の文脈に合わせて発信する活動を始めたのです。

ちなみに、渋沢栄一の文章を読むと、闘争心に溢れた人だということが感じました。それまで思い描いていた渋沢栄一はニコニコした温厚な人だったのですが、実はエッジが立っていて負けず嫌いだし、もしかしたら頑固オヤジだったのかもしれませんね(笑)。

大久保:なるほど。その点は現代にも通じるものがあったということですね。ちなみにお伺いしたいのですが、大正時代と現代の違いをあえて挙げるとしたら、どういうところでしょうか?

渋澤:大正時代においての成功体験とは、人口が増え、物が増えることで豊かになる、という考え方でした。ですが、そのような成功体験の延長には日本の豊かさを描けません。「これからは高齢化少子化社会が本格化する。だから、日本の将来は暗いんだ。」このような話が一般的ですが、本当にそうでしょうか。

2020年以降の日本では世代交代が加速します。すると、過去の成功体験を持った人たちがどんどんいなくなっていく。ですが、むしろ高度経済成長の成功体験を持っていない人々が社会の中心になると、逆に新しいカタチの豊かさを見つけてくれる可能性が高まると思います。

特に「ミレニアル世代」と呼ばれる30代半ばの世代は、物心ついた時からインターネットに繋がっていた世代です。日本国内に暮らしながらも、国外と自由に繋がることができ、翻訳機能が発達して言語の違いによる問題もなくなります。

枠を隔てるのは意識の問題だけです。日本の人口が減少しても、枠の外から人材や視点や考え方を呼び込むことで、成長することができます。日本は少子高齢化という問題を抱えていますが、「国」という枠を外せば世界には若者の方が圧倒的に多いです。だから悲観する必要はありません。

「枠」の中に留まるだけで良いという若い世代が主流になると、確かに日本の未来は暗い。けれども、自分は日本に暮らしながらも、世界とつながっているんだというマインドセットを持つ若手の発言力が高まれば高まるほど、日本の未来は明るくなってくると思います。

渋沢栄一が第一国立銀行を開業したのは33歳のときです。渋沢が設立に関わった多くの企業の創設者も、20代や30代の若者たちでした。つまり今で言うスタートアップと付き合っている感覚で、当時の銀行は融資していたのではないでしょうか。意思決定が速いことが企業の競争力の要であることは、過去でも、今でも変わりません。

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大きな組織じゃなくても、面白いことができる

大久保:渋澤さんは、外資系の金融業界を渡り歩いた後、起業されたと伺いました。会社員として金融業界にいた方が安定しているし保証も高いと思いますが、なぜあえて起業したのでしょうか?

渋澤:きっかけはふとした思いつきでした。僕はずっとアメリカで育ちまして、大学4年生の時に旅行で日本に来ました。その時に「日本って面白いな」と思って卒業後に再び日本に行きました。

特にやりたいことも無く、成り行きで国際関係のNGOに勤め始めたのですが、そこでビジネスのスイッチが入りました。「日本と海外との架け橋ができると面白いな」と感じて、まずはビジネスを知るため、MBAを取りにアメリカに戻りました。

その当時(1980年代半ば)、アメリカの証券会社や大手銀行が集中しているウォール街では、「MBAを持っている日本人ならようこそ!」という感じでした。引く手数多の状態で給料も良かったので、金融業界に入りました。その時はまさか自分が起業するなんて思ってもいなかったですね。

転機を迎えたのは30代後半。ヘッジファンド(※1)に転職したときでした。

それまで勤めていた企業はグローバルな大組織でしたが、転職して入社したヘッジファンドは強力なトップが率いる中小企業でした。彼の才覚と意思決定の速さによって大きな仕事ができていることを体感したので、「大きな組織でなくても面白いことができるんだ」と気づきました。

独立した2001年は長男が生まれたばかりでまだ金銭的な負担も少なかったし、多少の蓄えもあったので、「2年やってダメだったらまたどこか探そう」という気持ちで起業しました。何とか首がつながって、2007年には独立する前の収入を得ることができて、順風でした。

そのようなタイミングで現在のコモンズ投信株式会社を設立しました。日本の資本市場には長期的資本が欠落していて、本格的な長期投資を日本の個人の投資家に届ける選択肢が乏しいと思ってからです。

※1
ヘッジファンド:さまざまな取引手法を駆使して市場が上がっても下がっても利益を追求することを目的としたファンド。比較的自由な運用が可能で、先物取引や信用取引などを積極的に活用する運用を基本としている。

大久保:独立されていかがでしたか?

渋澤:改めて思ったことは、「いろんな人がいる」ということですね。会社勤めをしている時は同じような業界や生活の人と毎日話していて、それはごく一部の世界だったということを再確認しました。
もし、外資系の会社員を続けていたら間違いなく現在の収入も多かったでしょうが、それは当然会社の看板があってのこと。いかに自分で看板を立ち上げ続けていくことが大切で難しいかということを感じました。

大久保:ちなみに、なぜ投資信託会社を通じて社会起業家を支援しているのでしょうか?

渋澤:まず、コモンズ投信を立ち上げる前の2001年の時でした。シアトルからワシントンDCに移動する予定だったのですが、9.11が起きて一週間足止めになったんです。その時に一機の飛行機も飛んでいないシアトルの真っ青な空を見て「これはまずい」と思いました。

「平和って当たり前のようにあったけど、一人ひとりが意識を高めないとこんなふうに争いが起きてしまう。」そう感じたんです。

9.11発生直後、前職のヘッジファンドの創業者がすぐに自分のお金を出して、オフィスに近くあった消防署で亡くなった隊員の遺族のために基金を立ち上げました。その時に、利益やお金の循環ができる状況があるから、社会に対して即時に行動を起こせるんだと思いました。

一方で、日本はお金儲けをする側と社会活動に力を入れている側がアメリカよりも分かれていると感じていました。

2001年に立ち上げた事業は日本の機関投資家にヘッジファンド、ベンチャーキャピタルファンドやバイアウトファンドについて助言するアドバイザリー業務でした。日本の大きな組織からお金を預かって運用することになるので、当時協業していた西海岸の運用会社に成功報酬の一部で社会起業家を応援するプログラムを提案しました。当時のパートナーたちは即時に賛同してくれて、SEEDCap Japan (日本社会起業家育成プログラム)を立ち上げました。

ですが、2008年にリーマンショックが起きたことで、日本の機関投資家の全てが解約してしまったのです。「持続可能である事業にしなければいけない」と実感しました。それは、年度の計画、予算、会計、そして、忖度など余計なものが存在していない個人投資家からお預かりする長期的資金を社会起業家を支援する財源にすることが大事であると思いました。これが、現在のコモンズSEEDCap(社会起業家応援プログラム)です。

コモンズ投信株式会社の設立から10年が経ち、存在意義・ミッションを改めて言葉にすると、「一人ひとりの未来を信じる力を合わせて次の時代を共拓く」ということです。

一番の目的は、世の中に長期的な成長資金を循環させること。未来を信じる力がなければ長期投資はできません。未来とは、企業の株式投資から得られる経済的なリターンだけでなく、より良い世の中を作るために活動している人たちに出資(寄付)することから得られる社会的リターンも未来を信じることなんです。

起業は簡単。拡げていくためにどうするかがカギ

大久保:会社を運営し続けていくために必要なものはなんでしょうか?

渋澤「正しい答え」ではなく「正しい問いかけ」です。学校で学ぶ正否が明確な「正しい答え」をビジネスに置き換えると、売上や利益や株価というものになりますが、「なぜその答えになるのか?」を深読みする力がないとどこかでつまずいてしまうと思います。

今の世界は、変化していくことと独自のサービスが必要です。

例えば、金融は、お金が余っている人とお金を必要としている人を繋げるものです。ですが、今やテクノロジーが発達してその機能はプラットホーム化ができるので、たくさんの金融機関の存在感が問われる時代になりました。

そういう世界の中で、何が大切になるかというと、「なぜあなたと仕事をしたいのか」という感情の部分です。

例えば音楽において、楽曲の視聴方法がレコードからカセットテープになり、CDになり、ダウンロードになり、「機能」は変化しました。ですが、いつの時代も変わらないのは、ライブがすごく盛り上がるということです。スタジアムコンサートだろうが小さなライブハウスだろうが、音の良さよりも、この瞬間みんなと音楽を共有する体験はすごく盛り上がる。「意味」が大切なんですね。

機能はどんどん AI などのテクノロジーに置き換えられるけれど、最後に「それいいよね」と判断する感覚は人間だけのものです。
そのように判断されるために、時代に合わせて変化していきながら独自のサービスを突き詰めていけると良いですね。

大久保:なるほど。業界の変化だけでなく、投資家や起業家などの人材についても変化はあるのでしょうか?

渋澤:あります。90年代のITバブル期では、会社を立ち上げて上場して一儲けして、「いい車に乗りたい」「いい船を持ちたい」、じゃあ次は「上場かな」と言う起業家もいました。

その後の時代の2001年頃には「社会起業家」という言葉が出てきました。「何をきれいごと言っているんだ」という批判も特に上の世代から沸き上がりました。

ですが最近、私が主宰している「論語と算盤」経営塾に参加していた20代の女性が言いました。「社会起業家って意味がわかりません」と。「経済的に意義があることと社会的なことは同時にやることは当然なんだから、わざわざ『社会起業家』という言葉を使うことが理解できない」ということでした。

「社会的なことをして当たり前だ」という感覚はすごく興味深くて、三十代半ばを境に年齢の上下で起業家のカラーが違うなと感じていたんですよ。

上の世代は「利益を上げるにはどうするべきか」、「こうすれば商売が拡大する」といったことを話すのですが、若い世代は「起業して社会的にインパクトを与えたい。でも同時に稼ぎたい。」と自然と口にするんです。

大久保:そうなんですか。なぜ若い起業家は考え方が異なるのでしょうか?

渋澤:おそらく、漠然とした不安があるのではないでしょうか。

余裕はあるけれど、この豊かさがいつまでも続くという確信はない。かつての高度成長時代では余裕がなかったかもしれないけれど、自分の生活が確実に良くなっているという成長は感じていたと思います。今は成長が感じづらいので、儲けることだけではなく、社会的なインパクトも意識しているのかもしれないですね。

大久保:社会も企業も変化している今、渋澤さんはビジネスの行く末をどのように考えていますか?

渋澤:今はまだ終身雇用や年功序列の制度がまだ続いていますが、やはり正社員、非正規社員というあり方は古い時代のものです。平均寿命も伸びているので、人生にはセカンドライフ、サードライフというものが当たり前になってくるでしょう。

副業などについては、短期的に見るとマネジメントが大変かもしれませんが、社員が外の価値観を知ることは勉強になるし、社員が充実していれば生産性も高まるはずです。

また、最近では男性が育児休暇を取ることも増えてきました。職員が数週間すら休むことに難色を示す企業もありますが、長期投資家の立場からすると、ひとりの社員が一ヶ月抜けるだけで傾くような企業には投資したくありませんよ。欧米の銀行なんて、一ヶ月休みを取るなんて当たり前です。

世の中はどんどん変化しているので、会社は変化が必要です。起業することと会社を持続させ拡大させることは違うステージなので、常にアンテナを張って変化に対して柔軟でなければならないと思います。

簡単なことではありませんが、おそらく起業する人というのは、同じチャンスがあればもう一度起業をすると思うんです。ですから自分の行動を悔やむことなく、常に「今日よりも良い明日がある」と未来を信じる力を持つ起業家がどんどん出てくることを期待しています。

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