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私の生きる道程(みち)


第7回 幼い日の夢を叶え、今や日本一の映画看板師になった

写真

プロフィ−ル

久保板観さん
1942年、東京都青梅市生まれ。16歳から映画看板師のプロとして活躍。青梅市の町おこしの原動力として、映画看板を展示した旧青梅街道は「青梅宿映画看板街道」と称される・JR青梅線小作駅近くに、これまで描いた看板などを展示した「板観記念館(※)」もオープン。

※所在地:青梅市新町5-6-19
 電話:0428-32-6341
 開館時間:10:00〜17:00(入館は無料)

中学一年生の時、人生を変える出逢いが訪れた

写真 どんな人間にも、一生の間には運命を変える何かしらの“出逢い”がある。たとえば、担任の先生に影響を受けて教師を志したり、いい歌との出逢いがきっかけで歌手に憧れたり……。

 いまや、日本一の映画看板師となり、東京都青梅市の「宝」と称えられる久保板観さんに、人生を変えるほどの出逢いが訪れたのは中学1年生の時だった。
「当時、昭和29年頃は娯楽といったら映画しかなかったんですよ。僕の家は、映画館から100メートルほどのところだったので、毎日、学校の行き帰りに映画の看板を見るのが日課のようになっていたんです」
 初めは、俳優の写真が載っているスチール写真に意識が向き、次第に、絵が描かれた映画看板の方に興味が移っていった。
「いい人と出会うと、自分の中で何かが変わるということってあるものでしょう? それと同じ感覚で、一枚の映画看板と出逢ったことで、人間性が変わっちゃったんですよ」。

写真  実はそれまで、絵にはまったく興味がなかった。
「小学生の6年生までは絵は大キライで、学校の宿題の絵ですら自分では描かず、代わりに兄弟に描いてもらっていたくらいなんです。まぁ、今思うと、やらずギライの面が強かったような気がしますけどね」。
 小学生の頃の自慢は、運動神経の良さ。特に、足が速かった。「一番」になることに誇りを持ち、運動会が来るのが待ち遠しかった。
 しかし、中学生になると、体格のいい同級生に勝てなくなり、「かけっこ一番」のプライドがガラガラと音を立てて崩れてしまう。「かけっこ以外に、自分が一番になれるものは何だろう」と幼心に模索している時、人生を変える一枚の映画看板に出逢った。
「大河内傳次郎が演じた丹下左膳という侍の絵が、なぜか、いたく気に入ったんですよね。毎日見ているうちに、『こんな絵を描けるなんてすごいよな』って体の芯から燃えてきて、授業中も頭の中が絵でいっぱいになって……」。

 学校で教わったことはほとんど覚えていない。だが、映画看板に魂が吸い込まれた中学1年の当時のことは、63歳になった今でも、鮮明に蘇ってくる。


研究好きな一面が高じ、映画看板師としての技術はすべて独学

写真 久保さんは、自他ともに認める「研究好き」だ。たとえば、思春期に誰もが経験する初恋も、久保さんにかかると、「好きな女性の顔つきを見ているうちに、『どうしてオレはこの人が好きなのかなぁ』と考えて、いつの間にか研究材料にすり替わっちゃうんです(笑)」。

 研究好きな一面は、映画看板を描く技術を独学で習得する際に大いに発揮された。
「映画看板というのは、ベニヤ板に貼った紙の上に描くんですよ。だから、中学生の頃は、夜になると映画館に行って、コッソリ紙を破いて、家に持ち帰ってたんです。そして、紙の質や絵の具の質を調べていたんですよ。文房具屋さんでポスターカラーを買って、塗り比べてみたり、色を作ってみたりとかね」。
 初めは色や紙の研究からスタートし、次第に俳優の顔を描くようになる。以来、卒業するまで絵を描かない日はなかった。その上手さは紛れもなく校内一。自分の腕に自信を持った。加えて、映画は当時の娯楽の殿堂。
「映画館は、毎日、たくさんの人で賑わっているんですよ。そんな活気のある場所で、大好きな映画看板を描く仕事ができたら最高だろうな、と思ったんです」

 中学卒業後、近所の映画館に「看板を描かせて欲しい」と頼み込んだ。しかし、返事はノー。そこで、塗装業の一環として映画看板を請け負っている会社に弟子入りをした。しかし、来る日も来る日もペンキ塗りの日々で、映画看板の制作現場さえ見せてもらえない。しびれを切らし、半年後、もう一度、映画館へ直談判した。
「その時は、『お金はいりません。材料代だけもらえればいいから、描かせてください』って頼んだんですよ。それでも最初は断られましてね。結局、5回くらい通って、ようやく、いい返事をもらえたんです」。

 青梅市に三館ある映画館のうち、16歳にして一館を担当。時代は昭和32年。映画全盛期の時代である。その後も一館ずつ担当が増え、18歳の時点で市内の三館全部を受け持ち、青梅を制覇した。
「当時の映画は、上映サイクルが一週間ごとなんですよ。だから、三館も受け持っていると、一年で365枚は描かないと追いつかない。休むことなく一日一枚のペースで描く日が、5年続きました」。
 毎日、映画看板を描いていても、もらえるのは材料代のみ。生活費は、昼間、ペンキ塗りや映画館のポスター貼りなどのアルバイトをして稼ぐ。夜になると、睡眠時間を削って映画看板を描き続けた。
写真「修行中だと思っていましたから、お金は二の次。とにかく、映画看板を描けて、それをみんなが見てくれるのがうれしくて仕方なかったんですよね。その代わり、『10年後には東京で一番の映画看板師になって、ガッポリ稼ぐぞ』って意気込んでました(笑)」。

 しかし、その意気込みは実を結ばなかった。テレビの普及で、映画は昭和35年をピークに徐々に衰退し、昭和48年には、青梅に三館あった映画館はすべて姿を消してしまった。「東京一の映画看板師になる」という久保さんの夢は、時代の波に飲み込まれ、泡のように消えてしまったのだ。


夢をあきらめなければチャンスはいつか巡ってくる

写真 映画看板への思いを胸の内に秘めながら、映画館亡き後は、普通の看板屋に転身した。映画看板で鍛えた腕の良さと早さが買われ、仕事は順風万帆だった。しかし、平成になるとコンピュータの進歩によって看板屋が増え、仕事が目減りしてしまう。
「『マズいな』、『何か他に出来ることはないかな』と考えていた時に、今度はアコーディオンに出逢ったんですよ。アコーディオンを持って老人ホームを回るのもいいな、なんて思いましてね。まぁ、そう思っても、普通は実際に仕事にしようとは思わないでしょ? ところが、私は思い込むと行動に移してしまうタイプでして……。さっそく、プロの方の元で修行をすることにしたんですよ。それが今から14年前、49歳の時です」。 同じ頃、全国各地で盛んになっていたのが「町おこし」。青梅市で催された町おこしのイベントが、久保さんの転機になった。
「その頃はもう、私が映画看板師だったことは誰も知らなくて、看板屋として町おこし用の文字看板を描いて、ついでにアコーディオンも弾いてくれないかという依頼があったんです。その時、自分から提案したんですよ、『看板よりも、絵を描いた方がいいんじゃないか』って。そのことがきっかけで、また映画看板を描き出したんです」。

 今、青梅市内を歩くと、いたるところでレトロな映画看板を目にすることができる。
「映画館じゃなくて、商店街とか町なかに自分が書いた映画看板を飾ってもらえるなんて、これ以上ないギャラリーですよ。それに、昔の映画看板師は、時期が来れば捨てられる絵を描く、単なる職人だったんです。それが、今、“映画看板師”という仕事に注目してもらえるんですから……うれしいことですよね」。

 東京一を通り越し、いまや日本一の映画看板師となった久保さんには、今、いたってシンプルなふたつの願いがある。ひとつは、昭和30年代のカラーを守り通すこと。
「戦争を知らない人が戦争の怖さや悲惨さを知らないように、昭和30年代を知らない人に、あの古き良き時代の味を出すことができませんから」。
 その信念の賜物だろう。便利な水溶きの絵の具は使わず、粉をニカワで伸ばし、温度調節に細心の注意を払う「泥絵の具」をずっと使い続けている。
写真  もうひとつの願いは、ビールを飲めるようになること、だそうだ。
「今、体調の関係でビールを飲むことができないんですよ。でも、20代半ばからつい4年ほど前までは、仕事を終えたらビールを飲むのが日課だったんですよ。またビールを飲めるようになれば、今よりもっと健康になって、もっとたくさんの映画看板を描くことができるだろうな、と思っているんです」。

 大作家の赤塚不二夫を筆頭に、有名無名を問わず、久保板観さんのファンは多い。久保さんの描く映画看板は、昭和30年代を知る年齢層には懐かしく、若い世代には斬新に映る。
 これからも、映画看板を通して、心がホッとするメッセージを送り続けてくれるに違いない。




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